この発声法の背景

発声法はイタリア・ミラノから輸入された

この発声法の背景

私が紹介している発声法の背景についてベルカント唱法を中心にお知らせします。

それは「南欧式発声法」といって、私の先生(内山寛氏1933~2009)から口頭で教わったもので、このブログ内に記載の通りになります。

このブログの礎(いしずえ)には、大正時代から続く、日本での伝統的発声法があります。

私の師である内山先生は、舞台芸術学院創設者で歌手であった児玉好雄氏(1909~1986)からそれを教わりました。

ベルカント唱法 児玉好雄 内山寛

師匠と発声法

児玉先生は歌手で、まずアメリカで7年発声を学んだあと、ミラノで活動するため渡伊しました。

現在発売中のCD。全日本歌謡情報センターより

しかし、アメリカで学んだ声を全部やり直しさせられることになり、ミラノでさらに5年間ベルカント唱法を学び帰国しました。⇒(8)軟口蓋をおろす

児玉先生とティト・スキーパ(Tito Schipa)はイタリアで同じベルカントの師匠に指示しました。ティト・スキーパと児玉先生は兄弟弟子ということになります。

YouTubeからTito Schipa氏

多くの先生方

帰国後、原信子先生のご紹介でビクター専属となり、『無情の夢」など多くの楽曲を吹き込みました。

オペラ「ミニヨン」のフィリーナ姿の原信子先生(藤原歌劇団記念冊子より)

戦後は、池袋の舞台芸術学院の創設に参画し、数多の後進を輩出するのに貢献しました。

内山先生は、音大入学はかなわず、児玉先生に師事し、歌手を志しましたが最終的に、オペラ関連の仕事にたずさわりました。

内山先生が発声の秘訣をつかんだのは、その卓越した語学力によるものだったようです。

イタリア語とイタリア・オペラ

東京外語大学でイタリア語科を専攻し、そこでジュリアナ・ストラミジョリ教授に教わりました。

日本滞在中のストラミジョリ女史(Wikiより)

ストラミジョリ女史は、ヴェネチア国際映画祭に「羅生門」を出品するため、助言尽力した方です。

黒澤明監督は、俳優の三船敏郎、志村喬、京マチ子、森雅之を起用して、芥川龍之介の小説「藪の中」原作の映画「羅生門」を作りました。

それが、ストラミジョリ女史の機転と裁量により、1951年日本映画初のヴェネチア国際映画祭グランプリ(金獅子賞)を受賞しました。

その後内山先生は、NHKのラジオジャパンで、国内外のイタリアの情報を発信し、同時に、下八川圭祐先生(1900~1980)の声楽専門学校でプリマドンナの方々に語学を教えたり、公演資料の翻訳、映画の字幕翻訳などをしたりしました。

内山先生はもともとオペラが好きで、イタリア語を始めたそうですが、歌手をあきらめ、その後イタリア演劇の翻訳と上演に情熱を傾けることになりました。

1976年に出版された「旅路」。文庫の表紙は、ビットリオ・デ・シーカ監督の映画「旅路」から、ソフィア・ローレンとリチャード・バートン。

ライフワークとして、夏目漱石と同年、1867年生まれのノーベル賞作家、ルイジ・ピランデルロの戯曲を翻訳し紹介することに人生をかけていたようです。

生前内山先生は、特にNHKイタリア歌劇公演の仕事に携わったときに、ベルカント唱法について学んだそうです。

NHKイタリアオペラ公演から、レナータ・テバルディ氏とマリオ・デル・モナコ氏

マエストロのエレーデ氏(ミラノ・スカラ座指揮者)クワードリ氏(同左)のちにフェラーラ氏(映画「道」の指揮者)、

それから、ティト・ゴッビマリオ・デルモナコタリアビーニ、プロッティ、パオロ・モンタルソーロ、アンナ・ディ・スタージオ、サンタ・キッサリら、そうそうたる面々の、東京滞在中の住まい全般のお世話から、

合間に雑談、舞台稽古やリハーサルのマエストロの指導や叱責に至るまで、通訳として付き合うことで、さらに理解を深めたようです。

スカラ座指揮者アルベルト・エレーデ氏

それで結論として、ベルカントの神様は、ティト・スキーパである、ということのようでした。

ベルカントの神様

ベルカント唱法で歌う歌手というのは、わずかに実在するばかりで、はじめ、若手は皆んな、ベルカント唱法を勉強するのですが、

売れ筋のオペラで、ヴェルディの後期の作品やプッチーニ作品を歌い過ぎたりすると、それが祟って(たたって)声をダメにして、ベルカント唱法でなくなってしまうということのようでした。⇒声の問題~よくある症例

歌唱力(成長の段階)

オペラ歌手を成長の段階で4つのタイプに分ける方法があり、①レッジェーロ②リリコ③スピント④ドランマーティコとなってゆきます。

また同時にこれは、作品を区別するのにも使用されて、愛の妙薬はレッジェーロ、道化師はドランマーティコと言ったりもします。

スキーパは、4タイプとも全部歌っていますが、得意としてとどまった役としては、レッジェーロの役といわれています。

それで、これから、ティト・スキーパのことを書けば、自然にベルカント唱法の説明になると思いますので、そうさせてください。

ティト・スキーパの魅力

スキーパは、メッザボーチェ(半分の声)で歌うとか、ヴォーチェ・ディ・ミクロフォノ(マイクの声)とか言われていました。

つまり、オーケストラの合奏を凌ぐような大きな声を出したり、指揮や曲に合わせて歌うことはしませんでした。⇒FAQ

また、はじめにメロディができていて、あとで節(ことば)をつけたような、言葉の抑揚に不自然さのある曲も歌いませんでした。

鼻腔の内圧でコントロールしながら、自分はもちろん、お客を最高に酔わせる美声の持ち主でした。

他の歌手と特に違うところは、発音の美しさ、言葉の正確さ、明瞭さ、繊細さなのだそうです。かのシャリアピンが、「自分の発声法はスキーパのレコードを聞いて学んだ」といっている、逸話があるほど。⇒(7)声の回し方

声がのどに全く入らない、非の打ち所がない、天才というか職人でした。

スキーパの前にもあとにも、スキーパのような神様はいなかったと、当代の耳の肥えた聴衆達がいっていました。

ベルカント唱法をものにすることは、人が楽器となる技術を備えたことであり、

歌手が、想像したり創作したりする、すべての心や感情を、声の上にのせて、伝えることを可能にします。⇒ミッション

つまり、自分の声を自由自在に操れることであり、例えば、高い音域も低い音域も、速いカデンツアもトゥリルも、強弱も緩急も、思いのまま表現できることになるわけです。

鼻腔の内圧を頼りに歌うので、のどを痛めることもなく、本人はとてもいい興奮と恍惚感に浸っており、こんないい商売はないというような、羨ましいスターなのです。

時代の声!?

スキーパの活躍した舞台は、1910年~1950代のミラノやパリの社交界のサロンでした。

貴族たちのソーシャル(夜の余興)に欠かせない存在だったようです。

スキーパはレッチェという、南のフィレンツェといわれた、地図でいえば、イタリア半島の長靴のかかとの所の出身で、

勉強はミラノでされたようですが、その先生は、マエストロ ピッコリといったそうです。

児玉先生もピッコリ先生に教わってきたので、スキーパに会っていて、スキーパの兄弟弟子なんだと聞いています。

スキーパは、声をダメにしたくなかったので、ダメになりそうな歌曲は、歌うのを断っていたそうです。⇒口呼吸はこわい

スキーパの声を聞くと、呼吸のリズムが規則的であるため、聞く者の息が楽になって、鼻がすっきりしてくるようです。⇒声で変わる健康

穏やかできれいな海、心地いい風、静寂な晩の月、、、まだナポリへ行ったことのない人まで、甘くうっとりとさせられます。

さて、スキーパ、児玉氏と同時代の日本のテノールに、藤原義江氏がおられました。

『漂泊者のアリア』

義江丈の生い立ちと生涯は、古川薫著『漂泊者のアリア』に記されております。(歌舞伎役者の呼び方「丈」が使われた)

藤原歌劇団記念冊子より

内山先生が、NHKのオペラ通訳ができたのは、義江丈の紹介のおかげと聞いています。

藤原歌劇団を創設し日本のオペラ振興に尽くした人ですが、自らもミラノで勉強されて、ミラノでデビューして帰国されました。

「東洋のバレンチノ」とよばれた美貌のテノールで、一世を風靡しました。

彼の歌もベルカント唱法なので、ここにとりあげなくては、と思いました。

『鉾をおさめて』『出船』『出船の港』『波浮の港』など、義江丈の名前は知らなくても、

その曲や歌声を知っている人は、少なくないと思われます。まさに日本の心、憂いのあるお声と思われます。

でも、彼の特にすごい技術は、ロッシーニの『タランテラ』でわかると思っています。

彼よりすごい『タランテラ』を私は聞いたことがありません。

この曲はテンポが速いし、ことばが明確でなければいけませんし、基礎が身に付いていなければ、挑戦するのは難しい曲です。

義江丈はとても早口なのでした。

これこそがベルカント唱法によるもので、超絶技巧ではないかと、私は思うのです。⇒参考 (13)海女さんの呼吸法

以上ですが、ベルカント唱法を中心に、ブログの背景をお知らせしました。

お読みいただきありがとうございます。