声の哲学カード「声のある魂の教育:Education of the vocal soul」とは
魂は本来、音のない観念ではなく、
比例とリズムをもった“声ある秩序”のこと。
教育とは、新しいものを詰め込むことではなく、
魂の声がふたたび響く状態に整えることだ。
正しく響く魂は、正しく考え、正しく愛する。
The soul is not a mute idea,
but an ordered voice made of proportion and rhythm.
Education does not stuff in new things;
it tunes the soul so that its own voice can sound again.
A rightly resonating soul can think and love rightly.
解説
この「声のある魂」は、プラトンが『国家』で語る“魂の調和”と、『ティマイオス』で語る“宇宙が比例でできている”という二つを足したイメージです。プラトンにとって教育(パイデイア)は、外から情報を足すというより、魂にもともとある秩序=ロゴスを、音楽・リズム・数比によって再び働かせる作業でした。私の推奨するベルカント的教育と重なります。つまり、よく回る声・よく伸びる呼吸は、魂の比例が整っているサインでもある。よって「声を整えることは、魂の教育でもある」と言ってよい、というのがこのカードの趣旨になります。ルソーが「自然のテンポを守る教育」なのに対して、こちらプラトンでは「魂の中の数(比例)を鳴らす教育」だと覚えておくと区別しやすいと思われます。
個人のリズム感について迷っています。天体のリズムでやっていて、交通事故にあっては大変ですがどうしたらいいでしょうか。又、生活の中で、いつも音楽が鳴っているようにリズムで動くと良いようです。この違いをどのように説明できるでしょうか。
ポイントは3つあると思います。
- 宇宙みたいに大きく回るリズム(天体の秩序)
- 生活の一瞬一瞬ににじませるリズム(歩く・見る・食べる…全部に音楽を通す)
- それでも社会的にはズレてはいけない(事故ったらダメ)
① 呼吸に根ざした「常在拍(じょうざいはく)」
人は歌っていない時にも、身体の奥では拍が歩いている。
それを私は「常在拍」と呼びたい。
歩く・見る・差し出す・食べる、そのすべての動きに、
微かな呼吸の拍を一粒ずつ通すこと。
これが、生活を音楽に変える最低限の礼儀である。
「いつでもある拍」って意味で、ちょっと造語ですが使いやすいです。
“拍を通す=音楽がない瞬間を作らない”という私の師匠の教えと合います。
② 「外界とまじわるための拍」と「内的宇宙の拍」を分けておく
交通事故の話は大事ですので、
天体の拍はときに長く、ゆるやかで、恍惚としている。
だが社会で動くときは、他人と共有できる短い拍に折りたたんでおく。
内側には宇宙拍を、外側には生活拍を。
二重のリズムを持つ人は、舞台も人生もリズミカル!
③ 邦楽(三味線など)・微呼気・入り(はいり)の美学があるのですが
邦楽の「待って入る(ためてはいる)」美しさは、息の立ち上がりを全員が同じ拍で共有しているから生まれる。
ここで命なのは強い打撃ではなく、同じ微呼気を同時に吸っていること。
見えないところで拍を合わせているから、指揮者がいなくても始められる。
まさに「邦楽はリズム感が命」ですね!
④ 吃音の人との接続バージョン
見た所「吃音の人には音楽がなさそうに見える」のですが、アドバイスとしては?
吃音の多くは、言葉の拍と呼吸の拍がずれているときに出る。
つまり“言葉だけ社会のテンポに合わせようとして、呼吸が追いついていない”状態。
だから治療では、先に呼吸の拍を音楽化してあげるといいと思う。
呼吸に拍が戻ると、言葉もそこに乗る場所を見つける。
生活に宿る拍
The ever-present pulse
歌っていないときにも、
人は呼吸の中に小さな拍を持っている。
歩く・見る・食べる・差し出す——
その一つずつに拍を通す人は、
舞台に立っても遅れない。
外には共有できる生活拍を、
内には宇宙の長い拍を。
二重のリズムを持つことが、
人を音楽的にする。
※吃音のケアでは、まず呼吸に拍を戻す。

