0. 前回のおさらい
前回は、顎の自由度が声と呼吸の入口になり、顎が固いと声が「喉で押す方向」に寄りやすい、という話をしました。
今回はその続きとして、顎が固いと「母音」がどう変わるかを、音響(フォルマント)で説明します。
1. 母音の周波数帯は50~1000Hzでいい?
ここが一番誤解されやすい点!
- 声の高さ(ピッチ)=基本周波数 F0(会話だと 80〜300Hz 付近が多い)
- 母音らしさ(/a/ /i/ /u/…の違い)=フォルマント F1・F2…(F1は数百Hz〜、F2は1kHz超まで広く動く)
つまり母音は「高さ(F0)」より、口の中の共鳴地図(F1/F2)で決まります。日本語母音でも、顎開口(jaw displacement)と音響(F1など)の対応が検討されています。 J-STAGE+1
2. 顎が開くと、母音はどう変わる?
ざっくり言うと、顎が開くほど「開いた母音」の性質が強くなりやすい。
研究でも、顎開口・口の開きが大きいほど F1が上がる(=母音の“開き”が強くなる)という方向性が繰り返し出ています。 慶應義塾大学ユーザー+2JCAA+2
ここで大事なのは、顎が作っているのは「大声」ではなく、母音の輪郭(通り道の形)だということです。
3. 顎が締まると起きやすいこと:母音空間が縮む
顎が固い/開かない/噛みしめが続くと、舌や口腔容積の調整も一緒に小さくなりがちです。すると母音は、F1/F2の動きが小さくなり、いわゆる
- こもる
- 似た母音に寄る
- 何を言っているか輪郭が薄い(明瞭度が下がる)
になりやすい。
この「母音の動く範囲が縮む」現象は、vowel working space / vowel space area(母音空間)として研究され、縮小が話し言葉の了解度と関連することが報告されています。 I-LABS+2PMC+2
4. 顎が締まると「倍音が出にくい」感じが起きる理由
(専門的に言い換えると)
顎が直接「倍音(ハーモニクス)を生む/消す」わけではないようです。
- 倍音の材料は主に 声帯の音源(source)で生まれる
- 顎や舌は 声道フィルタ(filter)として、倍音の“どれが強調されるか”を決める
顎が締まると、声道の形が固定化し、フォルマントが動かず、結果として倍音の山(スペクトル包絡)が平坦に感じられることがあります。
歌唱の領域でも、音色(スペクトル)は音源と母音(フォルマント)の両方で決まり、母音空間を動かせることが音色維持に関わる、という整理があります。 PMC+1
5. 実験:30秒「顎と母音」セルフチェック
スマホ録音で十分できます。
手順
- 奥歯を軽く離す(接触させない)
- 唇は力まず、鼻で吸う
- 「あ・え・い・お・う」を普通の声量で1回ずつ
- 次に、わざと顎を少し固めて同じことをする(痛みが出るほどは×)
見るポイント(耳だけでOK)
- “あ”が「開く」か「こもる」か
- “い/え”の輪郭が鋭いか、似てしまうか
- 全体のテンポが取りやすいか(常在拍が戻るか)
6. 医療・リハ向け補足(安全な言い方)
顎を固定する(バイトブロック等)と、知覚的な自然さが下がる/一部音響が変わる、という報告があります。 MDPI+1
また「開口姿勢」が母音知覚を“よりクリア”にする方向の実験報告もあります。 サイエンスダイレクト
※顎関節痛・開口障害がある場合は無理をせず、歯科・医療職へおたずねください。
参考文献
Kawahara et al., 2017(顎運動×日本語母音):第2回の核「顎の開閉が母音の音響(特にF1など)と結びつく」を、日本語母音で直接支える一番ストレートな根拠。優先①。 J-STAGE+1
Liu et al., 2005(母音空間の縮小×明瞭度):第2回の主張「顎が固い→母音の“動く範囲”が縮む→こもり/明瞭度低下」を、vowel working space(母音空間)と了解度の相関として支える。優先②。 PubMed+1
Tourville & Guenther, 2011(DIVAモデル):第2回〜第3回をつなぐ土台「発話は feedforward+聴覚/体性感覚フィードバック統合で制御される」を、神経計算モデルで整理してくれる“理論の背骨”。優先③。 PubMed+2PMC+2
Peelle, 2018(Listening Effort):第3回の中心「劣化音声(雑音・不利な信号)は理解のための努力=聴取負荷を上げ、脳・行動に表れる」を、“聴く身体”を医学語で言い換える最重要レビュー。優先④。 PubMed+2PMC+2
Niebuhr & Siegert, 2023(コーデック×プロソディ歪み):第3回の具体例「圧縮コーデックがプロソディ/音響指標(F0関連や非トーン指標)を系統的に歪め、感情・抑揚の情報が“平坦化”し得る」を、TV/通話の“加工された声”問題に直結して支える。優先⑤。
Frontiers+1Niebuhr, O., & Siegert, I. (2023). A digital “flat affect”? Popular speech compression codecs and their effects on emotional prosody. Frontiers in Communication, 8, 972182. https://doi.org/10.3389/fcomm.2023.972182 frontiersin.org
Kawahara, S., Erickson, D., & Suemitsu, A. (2017). Jaw displacement in Japanese vowels. Acoustical Science and Technology, 38(2). J-STAGE+1
Liu, H.-M., Tsao, F.-M., & Kuhl, P. K. (2005). The effect of reduced vowel working space on speech intelligibility in Mandarin-speaking young adults with cerebral palsy. The Journal of the Acoustical Society of America, 117(6), 3879–3889. https://doi.org/10.1121/1.1903564 I-LABS
Tourville, J. A., & Guenther, F. H. (2011). The DIVA model: A neural theory of speech acquisition and production. Language and Cognitive Processes, 26(7), 952–981. https://doi.org/10.1080/01690960903498424 PubMed
Peelle, J. E. (2018). Listening Effort: How the Cognitive Consequences of Acoustic Challenge Are Reflected in Brain and Behavior. Ear and Hearing, 39(2), 204–214. https://doi.org/10.1097/AUD.0000000000000494 PubMed+1
次回予告(第3回)
「デジタル音声(圧縮・ノイズ抑制・帯域制限)が、聴く身体を“固める”可能性」
— ただしここは、現象学だけでなく「聴取負荷(listening effort)」の研究で整理できそうです。
根拠は、顎(開口)と母音フォルマント/母音空間の研究と、音声の帯域制限・圧縮・雑音抑制が聴取負荷や自然さに影響する研究です。 PMC+4PMC+4I-LABS+4

